習い事の気づき
筆をとって凝視し何度書いても思うように書けない
まだまだ習いたて、練習が成りないからだともわかっているけど
頭で考え書いたもの迷った線は的確に先生に指摘いただける。先生は筆先から手首、肩肘の動きも読まれます。 筆の迷いは書いた本人よりプロは伝えてくれ自分も客観視出来きます。
そこからまた少ーし変われた自分の字に新鮮感。
ひとりで何回も書いてるのと違い、息を抜いてくれる感覚、みえてなかった線(道)の流れに気づかされる感覚
楷書(くずさない書き方) は頭を使いすぎると字体が小さくなり慣れだすと広さが生まれよか ったと褒めていただく。
2回目の提出は ..頭、肩少し楽になったんかな(笑)と少し◯をもらえた。(大人になっても◯もらうと胸がこしょばくニヤける)
3回目はそこから又上手く書こうと頭使った? とほんの少し変わった字の中のいやらしさを当てられる。
2回目出したものの方が少し自分に繋がってた気がした..
でも、ここから頭使わなくなってきたら字も成長してくるから! と言われなんかワク(ワク)っとした。
思った様に書けないとは、しっかり思ってないんだと身体の節でとまる感覚でたまにわかります。
全身でイメージ書きとれてないんだろう
練習したら出来る可能性
*思考から直結に肩肘手首、指先から筆先に届いていく( アーサナなら腹から末端に意識が繋がる)
*頭でっかちか無くなる
*ズームイン、バックの余裕が出来る
行書は柔らかくダイナミックや繊細の流れが好きやわぁ..と最近 ( yogaのヴィンヤサと同じにかなぁ)
けど、まだ基本を身につけてない私は筆の使い方、 流れが雑念と形だけを追う欲のまま墨汁が半紙につく頃にはどうも肩肘が自分の鎧になって書いてしまう。
自由、柔らかさは芯があるから生まれるんだろう。
意識の大切さ
習い事は仕事や家事の息抜きであっても、習うきっかけは小さくても
習おうと大人になって始めた原動力は子供の時より必要だったりする。
その力や勢いで何か繋がったなら、何でもせっかくの繋がりを何となくより
真剣に自分に合うプロの先生に学ぶ事がとても大切だとしみじみ感じる。
出来るだけの継続の力も
わかった感覚から、わかってないことの気づきの感覚はリアルな程、次に豊かがある。
ハタヨガの様な楷書、ヴィンヤサ行書
筆、お習字からも気づきもらえ学ばせてせもらってます。
紙に残す文字もカラダの感覚もミクロが繋がって流れていて、そこに全集中できたら楽しすぎるんでしょう!